テクノロジーを哲学しよう

"If we ignore technology, we do not only ignore material artifacts: we ignore our world." [Coeckelbergh, 2019]

技術の本質とは? 1.技術とタマムシ(道具説を超える)

目次

 

技術とはなにか?

よく引用されるように、B.フランクリンは、人間とは道具を作る動物といい、H.ベルクソンは、ホモ・ファーベル(つくる人)といったという。進化の歴史においては、道具を使うことで、類人猿から人類になったとされる。現代のAIやロボットも含んだ技術と人類との関係性そのものの起源は、人類の誕生にまで遡るのである。技術哲学は、その技術とは何かを明らかにするのみならず、技術と人の関係性を哲学するものである。ここからは具体的に、技術とは何かをみていきたい。具体的に、技術とはどのようなものであると技術哲学では考えられているのだろうか。理論としてはざっと次のようなものがある。

  1. 道具説:技術は目的のための手段で価値中立的なもの(一般的考え)。
  2. Gestell:技術は人や自然を用立て在庫にする危険なもの(ハイデガー)。
  3. テクネー論:技術の起源はテクネー(ハイデガー)。テクネーは真理を明らかにするもの(アリストテレス)。
  4. 身体器具説:技術は身体器官を反映してつくられる(カップ
  5. 楽観的技術論:技術は社会をよく発展させ反映させるもの(ベーコン)
  6. 技術決定論:技術は社会のあり方を規定するもの(世界大戦前後の技術哲学者)
  7. 身体拡張論:技術は身体の拡張である(マクルーハン
  8. 社会構成主義:技術は社会的に構成されるもの(STSの論者)
  9. 技術媒介論:技術は世界と人との関係性を媒介する(ポスト現象学

(これら+αを順次取り上げていく予定)

早速、今日は、技術は道具であり使い方次第で、価値中立的なものであるという、「道具説」を取り上げる。この考え方は、現代の常識とされている考え方で、国が発行する文書や裁判においてもこの考え方が使われる。しかし、ハイデガーをはじめ、おおくの技術哲学者は、この考えは正しいが技術の本質ではないという。どういうことだろうか。

道具説とはなにか?

参考にした専門書(『科学技術社会論とは何か(東京大学出版会, 2020)』)の「第3章 技術とはなにか」によれば、道具説は、

技術は外部から与えられた目的を実現するための単なる手段であり、

技術の善悪はその利用目的あるいは使い方によるとする。

 (科学技術社会論とは何か(東京大学出版会), P59)

 

考え方である。さらに、

技術は誰がいつどこで利用しようと同じように有効に働くのであり、その目的と利用方法は技術の使用者が決めるもので、技術自体が判断するものではないから価値中立的だという主張もある

 (科学技術社会論とは何か(東京大学出版), P59)

という。いずれも一見そのとおりであると感じられる主張である。一般に、「道具は使い方次第」、「道具は手段で目的ではない」といわれる。それを使って何か問題が起きても使った人間の問題となる。原発事故が起きたときに、裁判で訴えられるのは、原発やそれを開発した人間ではなく、原発を管理していた人間である。Winny事件の判決でも技術は中立と強調され、開発と実装が区別された。

 

 

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科学技術社会論とは何か (科学技術社会論の挑戦 1)

 

道具説の問題点

これらの考えの前提には、道具は人間にとって制御可能(Controllable)だというのがある。制御可能だからそれを使う人が制御できなかったことが問題になる。また、制御することで社会をよくしようというか考えになる。テクノロジーは、道具をルーツにしているので、テクノロジーもまた、同様に使い方次第とされる。このような考えは一般に浸透しているし、とくに、上記の裁判のように行政の判断は基本この考えに基づいている。例えば、こちらの国が発行している人間中心のAI社会原則にも「人間が AI を道具として使いこなすことによって、・・」という一文がある。

しかし、なにか違和感を感じないだろうか。例えば、本当に人間は技術を使いこなす(制御する)ことができるのだろうか。原発事故などをかんがみるに、それは難しいのではないだろうか。現代のテクノロジーは、人間の使い方を超えてしまい技術自体のパワーを持つに至ったのではないだろうか。こうした疑念が、技術哲学の最初の問いである。

また、上の本でもハイデガー研究の哲学者、加藤尚武の考えが引用され、

技術には特定の目的実現に貢献する使命があり、その目的から逸脱できないので、「使い方次第」というためには、その目的意図から完全に自由な判断を下す主体がその技術を支配している構造が必要になる。しかし、技術を保持している当事者が無私の立場でその技術の目的の価値・是非を判断するのはかなり難しい。

と説明される。実際、使い方次第という考えは、使い方を自律的に決定できる自己を前提としているが、これだけたくさんの技術に囲まれた環境で、使い方を自律的に決定する余地はまた限られている。原発を使いたくなければ、すべての電化製品をボイコットするしかない。しかし、それは、不可能である。また、原発自体は目的を持つものであって中立とは言い切れない。

したがって、技術自体が持つ何か(この何かをポスト現象学では「技術的志向性」と説明する)を受け入れ、それを理解し、技術をただの道具とする観念を超越したところから新たな関係性を模索することが技術哲学の出発点となる。

クランツバークの第一法則を超えて

実際、よく観察してみると、人は技術に対する複数の考え方を都合よく使い分け、技術のせいにしたり人のせいにしたりしている。裁判では人のせいでも、原発反対運動の矛先は人ではなく原発という技術それ自体である。AIへの人類の思いは、あまたのSF作品となって降ってきている。

人は、個々の技術が持つなにかに敏感に反応して、賛成反対、様々な意見を述べる。

技術史の大家、クランツバークの有名な「クランツバークの法則」の第一法則は、

Technology is neither good nor bad:nor is it neutral.

テクノロジーは、善でもなければ悪でもない。そして、中立でもない。

 

 

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メルビン・クランツバーグ(Melvin Kranzberg)

 

 というものであるが、技術は、善でも悪でも中立でもなく、何であるのか?という問の答えは、簡単ではない。しかし、個々の技術(小文字のtechnologies)をみてみれば、それぞれなにか固有の訴えをしていることがわかる。そして、技術全体(大文字のTechnology)となったとき、そこにどのようなメッセージが生まれるのだろうか。

また、それらはメッセージであるがゆえ解釈は人により異なる。ポジティブにとらえたりネガティブにとらえたりすることができる玉虫色である。テクノロジーというのは、状況や人によって解釈が変わる「玉虫色」の性質をもつ。けれども、そのテクノロジーというタマムシ自体がもつ性質というのもあるだろう。その答えを、読者の皆さんと一緒に考えていけたらと思う。

次回は、技術哲学の唯一の古典、ハイデガーの「技術への問い」を取り上げます。

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タマムシ