テクノロジーを哲学しよう

"If we ignore technology, we do not only ignore material artifacts: we ignore our world." [Coeckelbergh, 2019]

技術の本質とは? 2.技術への問い(ハイデガー) ①

目次

 

はじめに

最先端テクノロジーが放つメッセージから未来社会を想像することは、子どもたちはもちろん大人たちにとってもいつでもエキサイティングなことであったし、今のコロナ社会のような先が見えない時代こそ、そういった気持ちも強くなるだろう。空飛ぶ自動車に宇宙エレベーター、自動翻訳機に読心技術。これらの技術の実現に向けて世界で技術開発が進んでいる。日本政府もムーンショット型研究開発事業を立ち上げている。しかし、こうした技術はそもそもなんのために存在するのだろうか。

技術はなんのために存在するのか、またその技術の本質とはなにか?様々な技術哲学者が論考を重ねてきた。個々のtechnologiesが発するメッセージ、そして、技術がTechnologyとして総体として発するメッセージを、繊細に感じ取り言葉にしてきた。その感じ方は、前回の技術はタマムシ色という話にあるように、千差万別でどれが正しいということはないのかもしれない。ハイデガーはテクノロジーにテクネーの響きを読み取り、スティグレールはそもそも記憶や時間の誕生に技術の萌芽をみた。現代の若手の技術哲学者Yuk HuiはCosmotechnics(宇宙的技術)の概念で東西の思想の壁を超えたところに技術の本質を読み取ろうとし、ケビン・ケリーやラブロックは、それぞれテクニウム、ノヴァセンという概念で生命進化から地続きでつながるテクノロジーの進化をリアリティを持って描く。こうした深い洞察は技術の本質を感じさせ、肯定的に技術をとらえ直すことに貢献するが、やはり技術にはネガティブな面があることを忘れてはならない。産業革命のたびに、ラッダイト運動のような抵抗が起き、マルクス主義において技術は労働のための搾取の道具とみなされる。

哲学者、國分功一郎が言うには、ハイデガー原子力の平和利用をだれもが疑っていない時代に、その本質を見抜き、唯一懐疑的な意見を持ちえた哲学者であったという。その点で、ハイデガーは再度評価されるべきだと(原子力時代の哲学(國分功一郎))。現代でも、そしてあまたのテクストの中でももっとも強い影響力をもつ技術哲学書「技術への問い」。この「技術への問い」は、決して長くないテキストだがそうしたハイデガーの技術観を凝縮したエッセイとなっている。

そのエッセイの言わんとすることは、技術礼賛の人にとっては馬鹿げた話か聞きたくもない話である可能性がある。このエッセイで、ハイデガーはつまるところ、「水力発電から電信まであらゆる技術が自然を破壊し人をも資源化する現代の技術の使い方は間違っている」ということを言いたいのだとわたしは理解している。今で言えば、どこでもオンラインになれるようになったことの裏返しの視点から、すべての空が携帯電話の電波で覆われてしまったことを嘆くこともできる。技術は、まさにブルドーザーのように古きよき田園、里山、海辺を破壊していっているのは、間違いのない事実であって、私たちはもう麻痺しているかもしれないが、ハイデガーの時代は、第二次産業革命の電力・電波が資本の力をエンジンとして、古の資産を破壊し世界を覆わんとするその姿を前にペシミスティックになることも多かっただろう。ハイデガーはやはり田園を愛していたらしい。環境哲学の視点からも、ハイデガーから始まったなにかがある。そして、大事なのが、この主張に対して、少しでも自然と共生して生きていきたいとおもている人ならば、即座に共感するなにかがあるということだ。

日本でもこうした思いはとくに20世紀後半にかけて繰り返し描かれてきたように思う。例えば、「平成狸合戦ぽんぽこ」は、そうした里山が技術であり資本によって破壊されるさまを描いたアニメだが、ジブリの映画全般にそういった思いが読み取れる。しかし、一方で、ジブリの映画においてもハイデガーにおいても、技術はまたロマンと希望に満ちあふれたものとして描かれるようにも感じられるわけである。

前置きが長くなってしまったが、ともかく、この「技術への問い」は、タマムシ色の技術をその本質まで掘り下げることで、ポジティブでもネガティブでもないところからとらえ直すきっかけを与えてくれる。しかし、ハイデガーの存在そのものがそうであるが、問題作とされると同時に難解である。その「技術への問い」を私なりに読み解き、ハイデガーはテクノロジーとはどのようなものであると感じ取っていたのかを何回かにわたって取り上げる。

 

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Heidegger

ハイデガーとは?

本題に入る前に、ハイデガーと代表作「存在と時間」における道具的存在の概念を紹介したい。

そもそもハイデガーはどのような人物であったか。それが、どうもかなりの変わり者だったらしい。ハイデガーは、決して静謐の中で穏やかに私たちを諭してくれるような哲学者や緻密な論理を積み重ねることで有無を言わせぬ納得をせまる哲学者ではなく、問題含みのキテレツさを併せ持つ天才。最近では没後出版された黒ノートで話題になることもあるハイデガー。本国ドイツではナチスに加担したということでハイデガーの評価はいつまでたっても低空飛空しているという。

そのハイデガーが「存在と時間」を書いたのが1927年。その中で、「道具的存在」と「事物的存在」についての有名な論考がある。ハンマーで釘を打つ時、ハンマーのことを忘れ意識はそのハンマーの先にある釘だけを認識している。つまり、道具を使っている時、道具のことは忘れていて、その道具の先から対象物を認識しているという感覚は、誰しもが納得行く感覚である。こういったことをハイデガーがはじめて言ったのかは、私にはわからないが、師匠であり現象学をはじめたフッサールやメルロ・ポンティの身体性の哲学との関連からも重要な指摘であることがわかる。

またこの考えは、人間は道具であり技術を使って意識を拡張しているというマクルーハンらの発想(ハンマーの先まで意識が拡張していることからの延長)や、ポスト現象学における技術の身体化の議論などへとつながることになるし、日本の脳科学者が発見した、道具を使う猿の脳状態ともつながる。そしてまた、わたしは人間がサイボーグ化することの哲学的意味ともつながると考える。サイボーグもまた十分に身体化されうるものであるという前提を示すものだからだ。

技術への問いを読む前に

しかし、そうした「道具」と「現代技術」はかなり異なるものになるところまで来てしまったというのが、「技術への問い」の主張となる。「存在と時間」の後、第二次世界大戦ハイデガー公職追放ナチス加担)という荒波を超えた後に、その間にあためていた技術への論考を、講演の中で発表したものをテキストにしたのが「技術への問い」である。想像ではあるが、その間の戦闘機や戦車、通信や暗号などの最新技術の攻防が大量殺戮を生んだこと、さらには、広島長崎への原子爆弾の投下という「技術による容赦なき破壊」を知り、「技術への問い」のベースとなる「現代技術は危険である」という主張が生まれたと考えられる。戦前までは、道具の身体化を論じ、技術を手元においていたのに、戦後の展開では、技術は手元から離れた巨大な産業装置で、人と一体化するのではなく人を搾取するものという主張となる。

ハイデガーの技術への問いは、ドイツ語で書かれたものであるが、ハイデガー自体のドイツ語の使い方が独特のようである。また、比喩や言葉遊びをいくつも繰り出しながら、対象となる存在の本質に向かって、その裏の裏にまでも潜り込もうとする勢いで論を展開するのだが、その解釈は容易ではない。

したがって、日本語に訳すのは困難が伴うようで、今では容易に手に入る範囲では2つの訳書を読むことができるが、例えば、キーワードの「Gestell」についても一方は、「集-立」で他方は、「総かり立て体制」である。また他には、「徴発性」「全-仕組み」「仕組み」「立て-組」「巨大-収奪機構」などと訳されていたらしい(ハイデガーの技術論(加藤尚武 編))。Gestellは、私なりの解釈では、「現代技術の人や自然を在庫として用立てる働き」を表現するためにハイデガーは用いたと理解している。しかし、一つの用語だけでこれだけの訳語が分かれる時点で、このテキスト全体でハイデガーが本当に言いたかったことにドイツ語が読めない私がたどり着くのは困難であることが予想される。しかし、技術哲学は、上に書いたように、ハイデガー解釈から始まるのが伝統のようなので、門前の小僧のわたしもそこからはじめてみたい。

次回、その「技術への問い」の内容へはいります。