「テクノロジーを哲学しよう」をはじめます
テクノロジー を哲学したいという方のためのブログです。まずは、海外の情報の訳や書籍のレジュメを載せていくのでテクノロジーの哲学に興味のある方、参考にしてみてください。
私は、民間で10年ほど研究開発しているなかで、そもそも技術とはなにか?という哲学的問いにぶつかり、技術哲学の研究を志したものです。
調べてみてわかったのが、テクノロジーの哲学、つまり、Philosophy of Technology=技術哲学は、海外では、アメリカ・ヨーロッパ(特にオランダ)で今も盛んに議論されているが、日本にあまり入ってきていないということでした。
ハイデガーの「技術への問い」以降、パッと思いつく範囲では、主な技術哲学の専門書の訳書は、アメリカのフィーンバーグの「技術への問い」、オランダのフェルベークの「技術の道徳化」ぐらいなのではないかと思います。
20世紀後半の技術哲学文脈での重要な哲学者である、ドン・アイディもカール・ミッチャムも訳書がでていません。フロリディは、インフォスフィア(第四の革命)のみ出版されています。
日本では、技術哲学の研究は、必要がないのかもしれません。しかし、私のエンジニアとしての経験から、技術とは何かを今問うべき時だと思っています。
また、日本人であり西洋人の技術観は大きく異なります。宗教観(一神教・多神教等)の違いと説明されることもありますが、個人的には、そもそも日本人の「もの」と「Thing」から異なりますし、ドイツ語の「Ding」はそれとも違うでしょう。
日本語の中でも、テクノロジーと技術で語感は違いますし、Technologyを科学技術と訳す場合もあります。道具、ツール、そして、テクネーなど、技術の周りには、たくさんの言葉が浮いています。
そうした技術が「AI」や「ロボット」として進化することで、社会を変えようとしていると様々に議論されています。AIの脅威論を展開する西洋の学者は多いですが、東洋人からするとあまりピンときません。そもそも「物」のとらえ方が違うんだと思います。
また、調べていくと意外なことに西田幾多郎や三木清など戦前の京都学派の大家たちが技術についてかなり深く論じていることがわかってきました。
2020年代以後の新しい時代背景をいろどる技術観を、東洋的であり日本的思想に根ざしながら考えていけたらと思っています。
おいおいまとめますが、今の私は以下の3大テーマに関心があるので、通奏低音で問い続けられたらなと。
- 機械論:人間はどう機械で機械でないのか。
- 技術決定論:技術は社会をどう決定し、決定されるのか。
- AIの自律性:AIは自律性をいかに持ち得て、持ち得ないのか。